以下はある授業の振り返りで、ある院生が書いたO先生(といえば卒業生はお分かりでしょう)の授業の様子です。
大学院では学部以上に、学生の思考力を鍛えます。しっかり勉強したい方、ぜひ広大教英へお越しください。
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もう一つエピソードを述べさせていただきたい。それはO先生の授業での経験である。前期の授業では,Dickensの作品の精読を演習形式で行った。学生が1ページを担当し,担当内のページで問題にしたい箇所を指摘し,受講生皆で考えていくというスタイルである。
最初の数回の授業では,テクストのどの箇所を指摘するべきかすらも正直掴めなかったというのが私の率直な思いである。そのようなわけで,受講者側からの指摘が尽きると先生の方から質問が飛んでくるが,私 (も含めて多くの受講生) が目に留めなかった箇所を指摘されるので,私(たち)は答えにどうしても窮してしまった。そのような時先生は学生の方から何か反応があるまで待ち(かなり長い間待つこともあった),学生側の指摘を拾い尊重してくれた。最後には先生のお考えも示されるが,どうしてその箇所を問題にしたのかも説明し下さり,こちら学生としては,学ぶことが多かった。
また先生は「分からないこと」を大切にしており,私(たち)は自分自身の知識や経験を全て疑って,英文を読む姿勢を学んだ。先生が明示的に教えたのは,どの辞書を使うべきかということぐらいで,ある意味私(たち)は先生から突き離されてはいたが,私(たち)はそうであるがためにより一層多くのことを学ぼうとしたし,どうすれば英文を読めるのか試行錯誤して考えた。その過程こそ,学ぶことを学ぶ (learn to learn) 過程であったのではと考えている。
先生の授業を取り終わった今でも,英文を読む際には授業で培った視点を取り入れている。実際私は以前よりも読んでいて「分からない」感覚が増えたが,同時に読むことが楽しくなったし,力がついたと感じることもある。しかしもし先生が一方的に講義をしてノートを取るだけの講義であれば,「分かる」という感覚も味わうことがきなかっただろうし,あるいはこれまで通り,安易に人に聞いてすませていたかもしれない。
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