以下もデューイの『民主主義と教育』を読む授業を受講している院生の書き込みです。
彼も書いているように、教育とは、絶え間ない自己変容を促進するものであると同時に、その自己変容に対してある程度の大まかな見通しをもたせるものでなくてはならないものかと思います。
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【先週の授業の振り返り】
絶え間ない変容を可能にする教育
授業では第三章と第四章を読みました。特に重要だと考えるのは、四章三節"The Educational Bearings of the Conception of Development"でデューイが述べる、教育という過程の考え方です。
"...the educational process has no end beyond itself; it is its own end; and that (ⅱ) the educational process is one of continual reorganizing, reconstructing, transforming."(p.48)
教育にそれ自体を超える目的はなく、教育は絶え間ない再組織・再構築・変転の過程であるという考え方は、それ自体では難しくてつかむことができないものですが、デューイが第一章で生命や社会について述べていたことを思い返せば理解できます。
生きることは絶え間ない自己変容の過程であり、その性質を持つ人間の営む社会も同様に絶え間ない変容を行っていくものであるということから考えれば、社会において新たに成員となる子どもたちを教育する際に目指すべきものは、変容を止めない社会で生きるために変容を止めない子どもを育てること、つまり子どもの有している豊かな可塑性を強く引き出し、大人になっても、教育課程を終えてからも成長を続けて行くことができるようにすることである、と考えました。
教育の目的を外部の大人の規準から引き出し、それを子どもに課すということは、一見システムの合理性のうえではとても効果的に働くかのように思われますが、デューイの掲げるような人間観、社会観のもとでは「教育ってそんなもんではないよ」ということを言ってしまっても良さそうです。
社会のあり方や人間のあり方について、完全に正しい正解が存在していて、それはゆるぎないものであるためにそこに至って完全に停止することが最も正しい、という考え方を簡単には受け入れられないように、教育についてもいつでも正しい固定された目標に到達してしまえばおしまい、という考え方は受け入れることができません。民主主義社会も同様のプロセスをとる方が望ましいとデューイが考えている、という理解で間違いなければ、僕もこの考え方に大きく賛成したいと思います。
【予習書き込み】
到達点を前もって見ること
第八章では教育の目的についてが語られます。デューイは「ねらい(aim)」を"an orderly and ordered activity, one which the order consists in the progressive completing of a process"(p.97) として定義して、そのようなねらいのもとでで私たちは到達点(end)を予見することができると述べます。到達点を予見することができないような活動の中で目的について語ることは無意味である、とその後述べられています。
到達点がわからないままに何らかの活動を押し付けられてしまうというのはどういうことか、と考えると難しいのですが、例えば学校の英語科で考えるならばどういったことがそれにあたるのでしょう。
毎日宿題として課される単語ノートは、その意味では教師が思うような「この宿題を通して語彙を豊かにしてほしい」のような到達点を子どもが予見することなどできず、「宿題を終わらせる」という誤った到達点に向かって単語ノートに取り組んでしまうかもしれません。文法事項の暗記を強調するような定期試験が到達点としてあるために、普段の授業や学習も、文法事項を暗記して定期試験で点数を取るためのものになってしまうということでしょうか。
今挙げたような理解はもしかしたらデューイの述べたようなこととは少しズレているのかもしれませんが、第八章でデューイが言いたかったことをもって現代の公教育の諸制度を見るならば、私たちがその中で生まれ育って教育されてきたがゆえに疑いすら持てないほどに自明のものとなっているものを、相対化できる可能性があるように思います。
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