2017/09/15

学部4年次生による「対話」についての振り返り


 以下に掲載するのは、学部4年次生用の授業(現代社会の英語使用)で演習を行った対話に関する学生さんの振り返りです。

 「対話」といっても、それが結論などをまったく必要としないブレイン・ストーミングのようなものか、それともある程度の合意を必要とするものなのか、などによって、そのあり方は多少変わります。授業で行った対話は、教育現場での話し合いを模擬的に行ったこともあり、ある程度の合意を求めるものでしたが、それでも結論を性急に求めてはいけないということについては変わりません。

参考:
David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/04/david-bohm-dialogue.html
感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html
ボームの対話論についての学生さんの感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/blog-post_8.html 

 下のまとめを読んでみると、私自身、対話の技法についてもっと熟達していかねばならないと思わされます。

 家庭でも職場でも公権力の場でも対話は重要です。

 皆さんも下のまとめを読んで、日頃の対話のあり方について再びお考えになってはいかがでしょうか・・・







*****



■ OAさん

 対話とは、参加者個々それぞれが物事の一面しか見えていなくても、真理と連動性を全員が目指して対話をしていくと、個々の誰の考えであったものでもない、新たな考えを創造できるというものであり、集団で思考することである。相手の言っていることが一見話題とは関係ないように思われるかもしれないけれど、連動性が頭にあれば、「それはどのように関係するの?」と質問をして議論を深めていくことができる。「相手を変えてやろう」と思っていると相手の意見を聞くことができない。

 また、結論を出すことに固執しないものであるが、私はこの意味をはじめ取り違えていたようである。はじめは、結論を出すことよりも、全てに連動性があると想定してお互いの意見を聞き合い、新たな発想にたどり着くことが大切なのだと捉えていた。しかし、対話の活動を重ねていくうちに、結論を出すこと自体が否定されているわけではないこと、むしろ結論が必要なときは往々にしてあるということを感じた。それらを経て、結論を出すことに固執すべきでないというのは、単に結論が出て議論が終わることすべてが非理想とされているわけではなく、例えば結論を出すことだけに執着しすぎて、ある個人の意見をそのまま採用して次の議論に踏み込むといった性急な対応がまずいということだという理解に至った。

 「対話は集団で思考すること」ということも、最初は思考する脳みそを持ち寄るイメージ程度にしか理解出来ていなかった。比較的うまく進んだ対話を踏まえて考えると、思考のプロセスまでも共有して自分ひとりではなく、参加者全員で対話を創っていくことが集団で思考することなのだと考えられた。そういう対話のあとに振り返って話すときに、「あまり『何言おう』って考えていなかったでしょ」と言われ、確かに、一人で黙って思考していた時間はほとんどなかった。それよりも、誰かの発現を聞いてまとめたり疑問を投げかけたりしていたように思った。

 自身が対話を重ねる上で感じた対話の意義は、多様な考えを持って集まる人間同士の対話から学べることがあるということである。自分が教員になったときには、対話を生かした授業をしたいし、その意義を伝えたいとも思えた。

 対話をするときはどのような心情になるだろうか、という問いに、対話の実践を重ねる前の私は、「楽しいはず」と発言した私であったが、その後対話を重ねるにつれて、もっと悩ましく、けれどもその悩ましさを楽しめる程度の楽しい感覚だったのかと思いはじめていた。しかし、あるうまくいった対話では、参加者の一人が講義時間終了後も続けたいくらい楽しいと口にした。このとき、苦しい悩ましさは有意義な対話に必須なものではないのだと思うことができた。



■ OT君

対話について

1 受容力を持って

 対話でまず重要だと感じたのが相手のいったことをまずは受け入れるということである。特に最初のほうの対話では自分の言いたいことにばかり気がいってしまって相手の述べたことにあまり関連性のないことを続けていってしまうようなことがあり、話につながりを各場面がよく見られた。自分の考えがあってそれを伝えたいのは自然なことだが、まずは相手の言った事を理解してそれに自分の考えをすり合わせる形で意見を述べないと、対話としてどの方向に話を進めていけばいいのかわからなくなってしまう。また相手の言ったことが少し違うと思っても頭ごなしに否定しては対話話進まない。たとえ理解できなくても一旦受容する。そこからわからない点を整理していく態度が対話では重要になってくる。


2 同じ方向性をもって

 対話においてそれぞれが好きなことを自由言っていては何もまとまらない。参加者全員が同じ方向、同じ目標に向かっていなければ対話は成立しない。対話においてただひとつの答えというのは存在しないため、目標といっても確固たるものはなく「よりよいもの」を常に目指していくほかない。それゆえに皆で目指す方向を揃えるのは難しい場合もあるが、細かく確認しあいながら対話を進めていくことでズレは修正していくことができる。授業中で教えていただいたジャングルで小屋を作る喩えはこのことを理解するのに非常にわかりやすかった。「小屋を建てるのには、それぞれが材料を集めてきても、一つ一つの材料をどのように使うのか、他のどの材料と組み合わせるのか、などを確認しなければならない」ように、対話をつくりあげるにはそれぞれの意見を適切につなぎあわせていかなければならない。その際にどのような材料があるのか、どこまで出来上がっているのかを細かく確認していかなければならない。

 明確な目標がなく不安な面もあるが、チームとして協力していくことにより、みんなでよりよいものを地道に作り上げていくのだ。その際に上で述べた受容力がなければ他者をチームの一人としてとらえることができず、協力してよいものを作ることができなくなるため、やはり受容力は大切になるのである。同じ方向性を持っていればそのチーム内にも自然に自分の担う役割のようなものが見えてきて、どのように貢献できるかを考えながら話を進めていくことができるのである。


3 話しやすい環境を作る

 話しやすい環境を作るにはそれぞれの発言に対してお互いに反応をしてあげることが必要になる。発言に対して反応が何もないと非常に不安な気持ちになる。不安な気持ちを持ってしまうとそれから発言をひかえるようになってしまい、自由な発言が出ずに対話は停滞してしまう。したがって発言に対しては何かしらのレスポンスを返して、信頼できる関係を他者と築いていかなければならない。その際のレスポンスは言葉に限ったものではなく、態度や空気を全て含めたコミュニケーションである。

 また自分の考えることを正直に口に出すことも対話をしていく上で大切になる。たとえ話の流れがわからなくても、自分の考えに自身が持てなくても、何も発しなければその人が何を考えているのか、何をわからずにいるのか他者が理解することはできない。したがってわからないこともわからないことで正直に認め、自分に不足している部分は他者に補ってもらうぐらいの考えで対話に望む必要がある。こういった信頼関係なしに、対話はつくりあげていくことはできない。


4 声

 自分の発する声によって相手やその場に与える影響は変わってくる。自分がわからないときでもただ漠然と「わからない」と伝えるのでは、相手も何か間違ったことを言ったのではないかと身構えてしまう。「自分は○○と捉えたのですが、正しいですか?」のように相手がどう感じ取るかを考えることで相手も不安を感じることなく改めて理解できるように説明することができる。自分の発言によって相手が、その場がどのような反応をするのか考えた上で、その時々に相応しい声を発していかなければならない。

 また対話が滞ってしまい、困った状況に陥ったときでも、声によって状況を打開する可能性もある。困ったときの困った顔をずっとしていても困ったままで終わってしまう。したがって困ったときこそ、あえて笑ったり明るい声をかけたりすることで、一度雰囲気をリセットし、プレッシャーの少ない自由な考えを促す。

 これらのように声によって同じ状況でもいい状況に展開できたり、逆に望まない方向に陥ったりする。声の持つ力の大きさを常に意識する必要がある。



■ HKさん

1.「対話」…って?
 

 会話とは違うもの。

 スピーチとも違うもの。

 特に結論は急がないもの。

 でも霧が晴れたりするもの。

 到達点はないけど方向性はあるもの。

 何らかの必然性を抱えたもの。

 TruthとCoherenceが共存するもの。

 相手がいるもの。

 でも自分を相手にすることもできるもの。

 うまくいけば新しい何かが生まれるもの。

 だから展開の予想できないもの。

 自身の変容。

 つくるもの。時にはチームプレイ。

 それにはテクニックがいるもの。

 それは思いやりでできているもの。

 一人一人に大切な役割があるもの。

 ことばだけで成り立つものではないもの。

 心の声の集合。

 進むもの。

 時に止まったり迷ったりするもの。

 なかなかうまくいかないもの。

 でも、

 本当はすごく楽しいもの。

  対話には、こんなにもいろいろな側面がある。授業を受ける前の私は、今挙げた中の何一つ答えることができなかっただろう。身をもって感じたことだからこそ、今こうして言うことができる。ただ、これらの感じたこと全てを、「対話」の定義としてひと言で表すことにあまり気が進まない。なんとなく、言い切れない気がするからである。そこで、「対話」を学んだことの成果が、必ずしもそれを簡潔に定義できることではないという都合の良い考え方をすることに した。「対話」に関して私の体が得た経験と知識全てに学びの価値を見出し、その総体を私の中の「対話」として定義しておくことにする。如何せん私はまだ 「対話」の全てを知らない。「対話」を考えることの、まだまだスタートラインに立ったばかりなのである。しかし、この授業のおかげでスタートラインに立てたことを大変嬉しく思う。


2.私たちの対話を振り返る

 はじめはなかなかうまくいかなくて、「対話」というものを探り探りに進めていった。皆、これって対話といえるの?これで合っているの?という不安を抱えていたに違いない。しかし回を追うごとに、私たちの対話は少しずつではあ ったが確かに、対話に近づいていった。

 私たちが打ち当たった最大の壁は、「沈黙」ではなかったかと振り返る。その 時私たちの対話に流れていたのは意味のある「間」ではなく、苦しい「沈黙」 の時間だったのである。それがいけないことは皆わかっていた。ただ、どうし てもまだ“言うことがまとまっていない”のである。それぞれが、それぞれの 頭の中で必死にそれまでの対話を整理し、次に発言する自分の意見を練り、汗をかいていた。あるいは、対話についていけていなくて焦っていたりした。どうして、私たちはそれをさらけ出すことができなかったのだろうか。一人ずつ 順番にマイクを回していくような、意見の発表会にして自らを苦しめていたの だろうか。みんなで考えればいい、みんなで悩めばいい。そんな簡単なことに、 はじめ気づくことができなかった。

  対話において、黙っていることが一番してはいけないことだ。というより、 黙っているうちは対話になっていない。もちろん、何も考えないでポンポン発言し続ければいいということではない。ただ、ゼロからはどんな化学反応も生まれない。何も始まらないのである。

 そのことを知ってから、皆の意識は変わっていった。しかし、すぐには変えられなかった。苦し紛れの葛藤が続いた。わからないことをわからないと言ってみること、立ち止まって確認しながら進めていくこと、流れをつくる問いを投げかけてみること、相手を受け入れてから発言すること、方向性を明らかに すること…。いろんな知恵を得て、やっと皆の心が一つになった時、心地よい 対話が生まれた。一つ一つの変化は、対話をするごとに一進一退しているよう で大きく目に見えるようなものでもなかったが、だんだんと同じ方向に意識が 向いていっていた。いいチームワークが、いい対話をつくる。そう感じた。気づけば、一人では到底辿り着くことができなかった場所にいる。それが対話だ。 話し合ってよかったね、と笑って言いたい。



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