2017/09/14

学部3年生による『英語教育と「訳」の効用』の書評


以下は、学部3年生のN君がある授業における「自主課題」として提出してくれた、『英語教育と「訳」の効用』の書評です。




中高の英語授業における英語使用の促進は、同時に「日本語は使うな!」という流れにつながっていますが、N君がまとめるように、「英語授業では絶対に日本語訳をするな!」といった意見は、「英語授業では必ず日本語訳をせよ!」といった意見と同様、頑なで非現実的な見解かと思います。


以上のように, 二言語併用は様々な恩恵がある。ただし注意しなければならないのは, 著者も度々述べているように, 「訳の使用は既得言語使用の一形態にすぎず, 唯一の形態ではない」ということである。(p.7, p.84)これを忘れればかつて直接教授法が教育訳を排斥したのと同じような「魔女狩り」に走ってしまう恐れがある。教育のあり方を考える際には, 全ての学習者にとって効果的な教授法は存在しないのだから, 「これが絶対」と言い出したが最後, 教育訳は, 直接教授法が辿ってきた道と同じ道を辿ることになるだろう。これは避けねばならない。


この書評は、「訳」 (translation) について丁寧に考えた本を、N君が丁寧にまとめたものです。

もちろん、まとめただけではなく、N君の見解も入っています。

学習者だけでなく教師も研究者も, 結局は何らかの思想ないしは感情に動かされて, 英語に対して都合よく枠組みを与えているだけなのではないか。そのような凝り固まった考えを解し, 言語学習・外国語学習には, それを使いこなせるようになること以上に重要な側面があるということ, 二言語併用と教育訳はその即面を理解する助けになるということを学習者に示す指針として, ぜひ本書を読んでいただきたいと思う。



以下、長い文章ですが、現役の英語教師の方々にも読んでほしい書評です。
N君、ありがとうございました!


*****

書評
『英語教育と「訳」の効用』
ガイ・クック著
斎藤兆史・北和丈訳
研究社
2012年



目次



1. なぜ本書を選んだのか

2. 本書の内容紹介

   2.1 書題に関して

   2.2 注意すべき用語

   2.3 本書の構成

3. 本書が提示する重要論点

   3.1 「目的としての訳」と「手段としての訳」を区別するべきか

   3.2 教育訳はいかにして迫害され始めたのか

   3.3 訳はなぜ論じられてこなかったのか

      3.4 第二言語習得理論と教育訳

      3.5 二言語併用の恩恵

   3.6 等価性に注目して訳すことを考える

4.  本書の意義






1. なぜ本書を選んだのか

 中等教育における英語教育が, 「コミュニケーション能力の育成」へと転換して久しい。その中で, 訳すことは「時代遅れ」というレッテルを貼られるだけでなく, 円滑なコミュニケーションを阻害する「悪者」とされ, 端に追いやられてきた。実際, 「訳してばかりだから(あるいは文法の学習ばかりしているから)日本人は6年間も英語を学んでも使えない。だから訳は排除せよ」という憤慨のことばはよく耳にする。そこから「教室は二言語空間であってはならない」などという極論にまで発展することがある。二言語併用の空間での英語教育を長らく受け, 自学スタイルも文法と訳の反復が中心であった私は, この類のことばに出会うたびに, 言いがかりでしかないのではないか, と長らく考えていた。教育の諸問題を考えるときには,自身の偏った経験による感情論や主観から主張を展開してはならない。感情論に感情論で反論しないために, 客観的に訳の効用を説明できるようになるために, 自らの「拠り所」として本書を精読した。





2.1 書題に関して

 本書は, Guy Cook, Translation in Language Teaching (Oxford University Press, 2010)の訳書である。訳者によると, 原題を正確に訳せば, 『言語教育における訳』となるが, 日本では英語教育に関連して読まれることが多いであろうとの考えから, 邦題においては「英語教育」という文言を前面に出したそうである。加えて, translationを「翻訳」ではなく「訳」としたのにも意図があるという。「翻訳」とすれば, 一般的には書き言葉における言語変換を指すのに対し, 「訳」とすれば, 話し言葉における言語変換に加えて, 認知的な言語変換を含む, より広く緩やかな意味での言語変換までを表すことができるのである。(p.229, 訳者あとがき)これは訳者による説明だが, 原著者も, 言語教育の現場であらゆる学習者に利があるとする「訳」(教育訳)については当然この立場を取っている。本書で復権を目指して擁護される「訳」は, この後者の意味であるということを押さえておきたい。

 



2.2 注意すべき用語

 言語教育を論じる際に, 論者の間で用語の定義が異なると, たちまち議論はかみ合わなくなる。著者は, 「定まった用語は定まった見方を表したものであり, そこには言語教育研究, 直接教授法による教育, そして第2言語習得理論の密接な歴史的関連が反映されている」(p.10)と述べた上で, 現状に対し異を唱えるためにあえていくつかの用語を新たに作り出し, その用語を定義している。その中でも特筆に値し, 本稿を読む上でも必要となるものを2つ紹介する。

 まずはTILT=Translation in Language Teaching)(p.11)である。本書ではこの用語に「教育訳」という訳語が与えられ, 度々使用される。教育訳は文字通りには「言語教育における訳」であるが, 2.1で上述の「広義の訳」と同義であると考えてよいだろう。つまり, あらゆるレベルの言語学習者にとって利があると考えられる認知的な言語変換を総称して「教育訳」と呼ぶのである。したがって, 「教育訳」とは一般に読者が, 無味乾燥で退屈に感じる書き言葉における訳だけを指すのではないことを, くどいようだが理解しておかなければならない。

 次に, 直接教授法(Direct Method)と二言語併用化(Bilingualization)(pp.12pp.13)である。こちらに関しては用語の定義というよりは, 重要観点の提示であると考えてよいであろう。訳の存在意義を考える場合, その背後には必ず「単一言語使用」か「二言語併用」か, という問題が付随していることが多い。「直接教授法」という用語は19世紀から20世紀に生まれたものであり, 現在使用する場合は「過去のもの」という意味合いが強く, その後に派生して生まれた単一言語使用による教授法とは区別して用いられることが多いが, 著者は, 「学生の既得言語は無視すべきであるという思想が20世紀から21世紀を通じてずっと継続している事実を強調する意図」(p.13)のもとに「学生の既得言語を避けようとするあらゆる方法を広く指し示すもの」(p.13)として否定的な意味合いでこの用語を用いている。後者は応用言語学者Widdowsonの用語であり, 「言語横断的(Cross-lingual)」教育(Stern 1992)などと同義であると考えてよい。一般に本書では「直接教授法」および「単一言語使用」などの用語は否定的側面を, 「二言語併用化」および「言語横断的教育」などの用語は肯定的側面を与えられていることを覚えておきたい。





2.3 本書の構成

 本書は2部構成である。第1部では「歴史」を扱う。まず序章で本書を読む上で当然浮上するであろう問題 (たとえば先述の「直接教授法対二言語併用化」など)や注意すべき用語について説明を加えている。続く第1章から第2章で, 現代において訳が否定的に捉えられているのはなぜか, その背景にある思想の歴史的変遷を扱う。キーワードは章題にもあるように, 「拒絶」「沈黙」である。第3章では, 21世紀に入り二言語併用が見直されていること, その背景にある二言語併用の恩恵が論じられている。この章が本書のピークであり, 必読の章であると言ってよい。

 第4章「訳すとは何か」である。それまでの章で「訳」や「訳すこと」に関しては, 「教育訳」という名称を与え, 広い意味での言語変換として捉えることを主張しているが, 実際に訳す時に考えなければならない「等価性」の問題に関しては言及されていなかった。この章では本書の主題である言語教育からはいったん離れ, 翻訳について考えることになる。

 第2部はいよいよ「議論」に関わるものである。まず第5章で, 主に第二言語習得理論と教育訳の関係が述べられる。第二言語習得理論で訳が「好ましくないもの」としてみなされている状況に, なぜ「好ましくない」と言い切れるのか, 仮にそうであれば, どのような点が「好ましくないのか」に疑問を投げかけている。第6章では, 教育哲学の4つの概念, ①技術的教育観(Technological perspective, ②社会変革的教育観(Social reformist perspective, ③人間主義的教育観(Humanistic perspective, ④学問的教育観(Academic perspective)(p.158)それぞれにおける教育訳の意義が説かれる。最後の第7章では教育訳を活動で使用する場合の類型が示される。実践例が豊富に示されているわけではないが, 「添削式近似訳」(pp.201pp.205)や「挟み訳」(pp.220pp.223)などは興味深い。中には, 「コミュニケーション重視の訳」など, 読者の目を引くものもある。一読に値する章である。





3. 本書が提示する重要論点

 この項では, 本書を読む上で気になった部分に関して, 最低限の引用をしつつ, 可能な限り日本の英語教育という枠組みのなかで、私見も交えつつ, 考えてみたい。



3.1 「目的としての訳」と「手段としての訳」を区別するべきか

 著者は序章冒頭で 「現代の言語学習者にとって, 訳すことが言語学習の主要な目的かつ手段であり, また成功を測る主たる基準でもあるべきだ」(p.2)と述べている。ここで重要なのは, 筆者が「目的としての訳」と「手段としての訳」を区別していないこと, そしてこの主張が従来の言語教育(直接教授法と第2言語習得理論に影響を受けた言語教育。学生の既得言語をできるだけ排除しようとする)を根底から覆すものであるということである。訳すことを目的とした言語教育は主として翻訳家や通訳者にのみ必要とされると考えられている。あるいは目標言語の原典を読むことによって何らかの知識を獲得しようする者にとっては有効であるとも言われる。だが, そうした「目的」を持たない者が, 目標言語を実生活の中で意思疎通の手段として使用する場合, 訳を介していては流暢さが損なわれるし, 既得言語による干渉が起こるというのである。ところが, 実際には訳す能力(上述の, 「広義の訳」)は, 文レベルでも, 単語レベルでも, 日常的に必要なものである。 「目的としての訳」と「手段としての訳」は区別する必要はないし, 区別するべきではない, というのが著者の主張である。(p.9

 日本でもこのように「目的としての訳」と「手段としての訳」を無理やり区別してきたがゆえに, 存在するはずのない二項対立(「形式対意味」「人工対本物」「権威主義的教育対共同学習」(p.200)「文法対コミュニケーション」「教養対実用」など)が無理やり生み出され, 浸透してきたように思われる。しかし, こうした二項対立は何も成果を生んでいないし, これからも何も生まないであろうことはもはや周知の事実であり, 薄々気づいているにもかかわらず, 過去に自身が受けてきた英語教育への嫌悪感, あるいは直接教授法崇拝に突き動かされ, この二項対立に依拠して英語教育の未来を語ろうとする者が日本にも相当数存在するという事実は見逃してはならないだろう。



3.2 訳はいかにして迫害され始めたのか

 訳迫害(この頃は迫害というほど過激なものではないが, )はまず19世紀末に音声学者・言語学者らによって, あくまでも自己流の「改革運動(the Reform Movement)として始められた。彼らが依拠したのが, 当時最新の音声学や心理学の知識であった。(pp.16pp.17)改革者たちは「音声言語優先」の理念や「観念連合理論」などをもとに, 話しことばや意味のつながりをもった文章の重要性を強調した。彼らが音声学者であること, そして当時は音声学や心理学が最新の学問であったことを考えれば, これは無理からぬことではあるし, 学習者の評判もよかったはずである。この時期は訳が完全に悪者扱いされたわけではない。

 時代の最先端を行く理論は後に続く理論に取って変わられるはずであり, 本来ならばその改革運動に新たな機運が加わり, 訳・書きことば偏重の従来のあり方と音声・話しことばをバランスよく合わせた新たなあり方が生まれてもよかったはずである。ところがそうはならず, 改革者たちが唱えた理念は現在まで本質的な部分は残っている。もしかすると, 当時よりも行き過ぎているかもしれない。本格的な訳迫害が始まった背景には, 改革者たちの理念と商業的思惑の融合がある。本書ではその典型的な例としてベルリッツ語学学校が紹介されている。設立の背景にあるのは, 「アメリカへの移民やヨーロッパの貿易業者・旅行者といった, 一般の教育制度の枠外に位置する成人の言語学習者が生み出す新たな市場」(p.19)の存在であった。そこでは, 訳の使用は一切禁止であり, 書きことばより話しことばが優先された。それだけならまだしも, 教師は例外なく目標言語の母語話者であることが徹底されたという。(p.19)この歴史からは, 現代にまで連綿と続く様々な思想が見え隠れする。すなわち, 「訳を介在すると円滑なコミュニケーションに支障をきたす」, 「言語は使えなければ意味がない」, 「母語話者教師(単一言語使用教師)は非母語話者教師(二言語併用教師)よりも優れている」などの思想である。これらの思想は本書中では, 「直接教授法の4本柱」という名で紹介されている。(①単一言語主義(monolingualism, ②自然主義(naturalism, ③母語話者主義(native-speakerism, ④絶対主義(absolutism))(pp.21pp.23)これらは柱と言いつつも, 互いに独立して存在するのではなく, むしろタペストリーのように複雑に絡みあっているため, 厄介である。この中でもとりわけ厄介なのが「絶対主義」である。本書によれば, 「直接教授法こそが成功に通じる唯一の正道であり, 学生も二言語併用の教授法よりは直接教授法を好むという前提」(p.22)を指している。これら4つの思想は, 第二言語習得理論に大きな影響を与えるばかりでなく, 教育訳に関する議論を封殺したのである。(後述)

 もうひとつ押さえておかなければならない点がある。初期の直接教授法推進者たちは, 教育訳という優れた多様な訳の使用形式と, 西洋に固有の文法訳読を, おそらく意図的に混同した。これによって教育訳はその形式がどうであれ, 旧時代の悪しき学習形態とみなされるようになったのである。日本でもこの種の混同は見られる。西洋の文法訳読法はギリシャ・ラテン語の教授から生まれ, 19世紀に西洋に持ち込まれた。人工例文を逐一訳しながら文法学習を行うものである。対して, 日本固有の訳読法は古くは漢文の訓読という形で存在し, 近代化の過程で, 洋学経由で英語教育に持ち込まれたものである。自然な英語で書かれた文章を, 文法事項を確認しながら読み進めていく,という点で西洋固有の文法訳読法とは異なる。(pp.230pp.231, 訳者あとがき)だが, この2つが混同されたことによって, 使い方次第では有効な訳読法が, 時代遅れで訳に立たないものみなされ, 日本の英語教育失敗の最大の要因であると考えられているのである。だがそもそも教育訳イコール文法訳読ではないのだから, 文法訳読への批判を盾に取り, 教育訳全般を貶めるのは明白な論理のすり替えであるが, このことに気付いている者は思いの外少ないのではないだろうか。これに関しては, このことに気づかぬ私たちのほうにも問題があるといえよう。

 

3.3 訳はなぜ論じられてこなかったのか

 教育訳排除の背景には複雑な背景が存在したことは前項で述べた通りである。著者によれば, 20世紀に関心を集めたほとんどの言語教育理論が, とりわけ訳すことを, 理由を明確にせず, ただよくないものだとのけ者扱いしてきたという。(p.2)そして, 訳がのけ者扱いされた理由として以下の3つを挙げている。すなわち, ①訳すことは退屈でやる気をそぐ, という教授法の面からの理由, ②訳すことは言語の習得と処理の妨げになる, という認知の面からの理由, ③学生は実生活で訳す活動を必要としない, という実用面からの理由, 3点である。しかし, 「これらの認識を裏付けるような研究や真面目な議論はほとんど存在しなかった」(p.2)のである。一度優位性を確立した者は, 自らの優位性を保ち続けるために不都合な部分は隠さねばならない。実際, 訳の使用は多くの場所で続いたものの, 訳に関する議論は20世紀を通してほぼ皆無であった。著者の言葉を借りれば, 「検討・評価を経た末に根拠をもって拒絶されたのではなく, ただ単に無視された」(p.38)のである。ほぼ1世紀の間, ある教授法が表舞台から姿を消し, そのうち復興するかと思えば, 以降全くと言っていいほど論じられなくなったのである。(現場では教育訳が使用され続けたのは幸いであった。)考えてみれば確かに異常なことである。

 教育訳が学術的にその効用を検証されない1世紀の間に, 直接教授法は初期の形式重視から意味重視へと形を変え, 様々な教授法が直接教授法から生まれた。その最たる例が, 1970年代に登場した「自然習得式教授法」(Natural Approach)および「コミュニケーション重視型言語教育」(Communicative Language Teaching)である。(p.45)当然, この背景にあるのは第2言語習得理論である。学習者は, 形式よりも意味に目を向けよ, 人工の言葉ではなく, 現実の, 意味のある言葉に触れよ, というもはや宗教の教義かとも思われんばかりの過剰な言い方である。

 著者によれば, この意味重視の革命は「自らの学習を自覚的に管理するという学生の役割を軽視」(p.47)することになったという。第二言語習得理論では習得は無意識化で起こるものであり, 理解可能な入力や意思疎通を通じて進むものと考えられたが, それは従来の形式に焦点を当てる教授法とは相入れなかった。形式という言葉はすでに権威主義的, 脅迫的な意味合いを持っていたから, 意味重視の直接教授法革命は「学生の自主性の解放者・促進者」(p.48)という触れ込みで登場したのである。ところが, 皮肉なことに, 「学習者中心」を謳いつつも, この教授法によってもたらされたのは, 学生の活動範囲のさらなる制限であった。悲しいことに, 「学生を意思も希望も持たない言語習得装置として扱う」(p.47)ことが許容されたのである。既得言語の使用が言語学習に利があるだけでなく, 学生の自己規定に多大な貢献をしているという事実に, 当時の第二言語習得研究者たちは気がつかなかったのだろうか。いや, そんなことはあるまい。何が起こったのかは自明である。自らの仮説・主張の優位性を示すために意図的に無視したのであろう。

 当然のことながら, 2言語習得理論は訳について手厳しい評価を与えている。訳は, 「速度にかける面倒なものであり, そこでは流暢さよりも正確さに重きが置かれているがゆえに, 取り外し不可能な足枷となってしまう」(p.132)と考えられている。スターン(Stern 1992 : 284)も, 「第2言語から, あるいは第2言語への訳を介在させずにできるのであればそのほうがよい」(p.139)と述べている。だがこの2つの引用には大きな違和感が残る。まず, 面倒だから行わないのであればそれは怠慢であり, 理論以前の問題点である。実際の意思疎通を考えた場合, 必ず正確さよりも流暢さが重要ということにはならない。時として, 正確さのほうも求められることがあるだろう。また, 取り外し不可能は言い過ぎである。著者は, スターンの引用では, 訳を介在させないほうが「よい」というのがどのような意味で, どの点から「よい」のか不明である, と述べている。本書中にはさらに多くの引用があり, 著者はそれぞれに客観的な分析を加えている。第2言語習得理論における訳排除は論証が弱く, 容易に賛同できるものではないということが分かっていただけると思う。

 人間は本来, 既知のものを活用し未知のものを理解しようとする。 言語教育とてこの例外ではない。その過程が学生の自己規定感や学習意欲を高め, 目標言語の習得に資するということは, おそらく実際に英語教育の現場を見る機会の多い者ならば直感的にも理解できそうである。にもかかわらず, 言語教育は直接教授法の登場以来, 理論面において, 1世紀に渡りこのような当たり前のことですら忘れてしまっていたのである。ところが21世紀に入り, 二言語併用に関して, 新たな機運が生まれているという。



3.5 二言語併用の恩恵

 著者によると, 21世紀に入り再び二言語併用の効用を見直す動きがあるという。だが, あくまでも二言語併用が支持されているのであって, 必ずしも訳が支持されているわけではない。訳を扱うことには依然として慎重な姿勢が伴う。著者はその理由として, 文法訳読の学問的堅苦しさや, 書きことばにおける形式重視の側面からもたらされる教育訳の持つ負の印象をあげている。どういうわけか, 「教育訳だけは二言語併用学習の中で別種のものとして見られている」(p.61)のである。だが, 二言語併用環境で訳を行わないことが現実に可能だろうか。学生は授業外で二言語辞書を引いて, 目標言語と既得言語を行き来して単語の意味を調べるであろうし, 授業内でもペアワークなどで訳すことによって互いに確認しあったり, 教師から説明を求められた際にも教科書の該当箇所を訳すことによって説明としていることがよくあるだろう。つまり, 訳はつねになんらかの形で存在するのである。訳など存在しないと言い張る授業であっても, 学生の頭の中で必ず起こるものであるし, おそらく授業をする教師の側も頭の中で訳を用いている。このように, 単一言語環境であろうと二言語併用環境であろうと, 訳は存在するのである。だから「二言語併用化を支持する議論は, 明言するとしないとにかかわらず, そのまま教育訳の擁護論としても同様の効力を持つ」(p.62)である。

 では, 二言語併用再考(すなわち教育訳再考)の恩恵とは何だろうか。一例として, 言語帝国主義(Linguistic imperialism)への挑戦が挙げられよう。日本人は地理的, 政治的, 教育的要因など様々な要因のせいで, 外国語イコール英語だと安易に考えてしまいがちである。日本人にとっての第一外国語は無意識のうちに英語となっている。しかしそれがいかに浅ましく悲しいことであるか。地球規模化の中で英語が「共通語」としてみなされる一方で, 逆説的ではあるが, 既得言語(多くの場合, 母語)による自己規定がますます必要になる。加えて, 「単一言語による社会という観念は, 世界の大部分において, 言語学的な事実というよりは政治的な色合いのついた神話に近いもの」(p.71)であることを考えれば, 実際には二言語・多言語による意思疎通のほうが主流であろう。表では地球規模化, 単一言語化などと言いつつも, 実際にはまだまだ多言語状況が以前と存在するのである。そうであれば, 相互理解のためにはやはり言語間の変換, すなわち訳を通らざるを得ない。既得言語使用は異文化を理解するのに必要であるというのはよく言われることである。21世紀という激動の時代において, 「寛容で平和的な世界」(p.3)をつくるのであれば, 訳の果たす役割は無視などできない。このような政治的側面からの主張だけでなく, 教育的側面からも二言語併用は有効である。著者の言を借りれば, 「既得言語使用が解説の迅速化・効率化をもたらし, 動機付けを促し疎外感を減じ, 教師と学習者の間によい関係を構築する一助となる」(p.83)のである。

 単一言語教授による恩恵も当然あるだろう。だが, はたしていくつあげられるだろうか。おそらくそのどれもが, 単に「言語使用」の面から語られる, 功利主義, 道具主義的なものでしかないだろう。言語教育, 外国語教育が人間の精神・思考を豊かにするという見方はほぼされない。

 以上のように, 二言語併用は様々な恩恵がある。ただし注意しなければならないのは, 著者も度々述べているように, 「訳の使用は既得言語使用の一形態にすぎず, 唯一の形態ではない」ということである。(p.7, p.84)これを忘れればかつて直接教授法が教育訳を排斥したのと同じような「魔女狩り」に走ってしまう恐れがある。教育のあり方を考える際には, 全ての学習者にとって効果的な教授法は存在しないのだから, 「これが絶対」と言い出したが最後, 教育訳は, 直接教授法が辿ってきた道と同じ道を辿ることになるだろう。これは避けねばならない。



3.6 等価性に注目して訳すことを考える

 ここまで「訳」とか「訳すこと」とうことばを使ってきたが, 厳密な定義はされぬままであった。本書では「第4章 訳すとは何か」において初めて言及される。訳に関する一般的な見方としては, 「言葉の意味をある記号様式から別の記号様式へと移動すること」(Dostert 1955)(p.89)や「ある言語による文章形式を別の言語による文章形式に置き換えること」(Catford 1965:20)(p.89)などがあるが, 著者はいずれの定義においても難問がうやむやにされているという。当然, 訳すうえで全てを完璧に「移す」ことはできないし, そもそも置き換えが不可能な状況でさえ存在する。後者の定義では, 「等価性とは何か」(p.89)についての説明がなされていないのである。言葉が理解されるためにはその場の状況だけでなく, 当事者同士が共有する感情や文化的・社会的知識, 身振りなど, 様々な非言語的要因が存在することは言うまでもない。したがって, 「等価性」と一口にいても, それは単語, 文の単位で済む話ではなく, 訳したものが与える「効果の等価性」や「文化的等価性」まで含めた広い視点を考えなければならない。とはいえ, 4章で述べられるような等価性に関する議論は翻訳者に求められるものであり, 学生にとっては要求が高すぎるし, 学生はあらかじめ知っておく必要もない。学習する過程で, 訳の難しさに気づけばよいのである。

 訳すことの効用のひとつとして, 「既得言語と目標言語の相違を知る」というものがある。だがその事実を「知る」だけで「実感」しないのはもったいない。重要なのは, 等価性に注目し, 訳を試みることで, 「なぜ訳がこれほどに難しく, またときには実際不可能でさえあるのかを理解すること」(p.115)であり,「翻訳ではなく原文を読むこと」(p.115)なのではないだろうか。





4. 本書の意義

 本書は教室内での訳を用いた授業の実践例を紹介するものではない。あくまで, 訳を不当に無視し排除してきた19世紀末から20世紀の言語教育「理論」に真っ向から挑む「理論書」である。読み通すだけでもかなり骨が折れる。前から読破する自信のない読者はまず, 「訳者あとがき」から始め, 「序章」「結論」「第3章」「第4章」を読むとよいだろう。この中だけでも, でも私たちが日頃疑いもしないであろう相当数の考えるべき課題が提示されている。

 本書が想定する読者は, 英語教育の研究者, 英語教育を専攻する学生, そして現場の英語教師, ということになろうが, 本書で提示される諸問題は外国語(英語)の学習者にとっても有益なものが多い。言語学習に幅広い視点を与えてくれる。外国語を学ぶとはどういうことなのか。なぜ外国語を学ぶのか。外国語を使うとはどういうことなのか。思想のない外国語学習に意味はあるのか。だが, こうした究極的な問いには, おそらく学習者だけでは到達できない。学習者がいずれ自分でこれらの問いに気づき, 考え, 答えを出せるようになるために教師の力が必要である。その教師が新たな視点を身につけるという意味で本書は非常に有効である。

 「コミュニケーション能力の育成」(コミュニケーション能力とは何ぞや, という議論は置いて置くとして)が叫ばれるいま, 本書は時代に逆行するように思われるかもしれない。もちろんそのような疑心の根底にあるのは, すでに述べた不自然な二項対立の数々である。しかし, 英語は英語であり, それを教養と呼ぼうが実用と呼ぼうが本質に変わりはない。学習者だけでなく教師も研究者も, 結局は何らかの思想ないしは感情に動かされて, 英語に対して都合よく枠組みを与えているだけなのではないか。そのような凝り固まった考えを解し, 言語学習・外国語学習には, それを使いこなせるようになること以上に重要な側面があるということ, 二言語併用と教育訳はその即面を理解する助けになるということを学習者に示す指針として, ぜひ本書を読んでいただきたいと思う。







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