2018/01/25

なぜ日本社会は数値化するべきものでない事柄まで全てを数値化したがるのだろうか



学部三年生用の授業で、アレントの哲学に触れながら英語教育について考え直してみました。以下はある学生さんの予習段階での書き込みです。







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アレントの見解を読んでいて、今の学校教育の現場には彼女が言う語りや活動が生成するpowerが欠けているように思えた。全てを点数化したがる制度からの圧力に負け、本来多様な人々が交流し合い、活動が生まれるはずの教室が、高得点をとるための練習、つまり労働をする場所になりつつあると捉えられるからである。

 以前教育を生産化し、経済利益のために利用する塾の話が出てきたが、塾はまさに活動を生まずに人々が労働している空間のように感じる。しかし、塾というのは志望校に合格するために点数を上げたい人が集まっている空間であって、そのニーズを達成するために明確な数値(偏差値など)に基づいて効率的で合理的な手段を提供していることから、虚しさは感じるが、ある意味大変理にかなっていると思う。しかし、学校現場でそれと同じことをするのは、語りや活動が失われるのはもちろん、学校(特に公立中学校)が持つ一番の魅力、多様な人種が集まる空間が産み出すpowerを封印することとと同じなのではないか。

 文部科学省の「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画の策定について」が掲げる目標も、TOEFL、TOEIC、英検などといった、スコアによって市場価値を明確にする交換可能な「生産物」によって定義されているが、学校側はこの基準に基づき、点数を上げるための授業を考えるだろうから、教室に活動や語りが生まれることは考えづらいし、受験勉強のための英語教育と根本はなんら変わらないような気がして、これに関しても疑問だ。

 こういった話題に出会ったときにいつも感じるのが、なぜ日本社会は数値化するべきものでない事柄まで全てを数値化したがるのだろうか。確かに数値化することで規準は設けやすくなるし、評価がしやすくなるのは分かる。しかし、英語コミュニケーション能力といった全てを数値化できない側面を持つものに対して無理矢理数値化する行為にはいまだに納得しがたい。

 かなり理想論なのかもしれないが、英語コミュニケーション能力を向上させ、教室という場に活動を取り戻したいのであれば、本当に生徒が言いたいことを手助けするようなスピーチ指導、生徒が表現したいことを学び得るような指導や手助けの方が数値化された目標よりもずっと大切なように感じる。。。




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