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産業化、目標合理主義に巻き込まれた教育に関して私が真っ先に例として思いついたのが塾、特に受験に突破させることだけが目標の塾だ。もちろん塾が全て悪いと言うつもりはないが、「○○高校・大学合格者○○人!」「偏差値○○以上まで上げることをお約束します!!」といった広告が特に地元で出回っていたのを思い返すだけで、「ああ、こんなにも教育は産業や資本のいい鴨にされてしまったのだな」と感じる。
今となってはようやくそれに気づくことができたが、実際に私を含め、周りの友達の多くが高校受験合格に向けて何かしらの塾に通っていた。目標数値があり、その数値に届くために必要な訓練をひたすらするので確かに成績は上がった。しかし、自分でじっくりと考えることよりも、効率よくいかにその数値に近づくかばかりが優先されている気がして、当時は中学生なりに時々疑問に思うことがあった。
疑問に思った時点で辞めるべきだったと考えることもできなくはないが、第一に問題だったのは、私が住んでいた地域では、塾へ行くことは当たり前のような風潮があり、中学校もそれに頼って若干塾任せと言えるような授業しか展開してくれなかったのである。学校は最低限を基準にした授業、生徒に考えさせない、周りは仕方ないから塾に行って志望校を目指すといった環境の中で、塾で効率の良い勉強をした人を抑えて行きたい高校に行くには、自分も塾に頼らざるを得なかった。(幸い高校進学後は学校に頼れるようになったが)
この危機的な状況を思い返すと、教育と生産を混同してはいけないという記事の意味がよく分かる気がする。経済や産業を発展させるには合理性や効率性は非常に重要な要素だろう。しかし、それだけを社会や教育にまで問い詰めるのは違う。目標数値や効率ばかりにとらわれると、その教科の楽しさや考えるという貴重な時間を潰してしまう気がする。私が育った区域では、効率主義、資本主義である塾の浸透だけが問題なのではなく、それをはっきり問題だと気づくことができなかった(気づいていたとしてもきちんと対応していなかった)公立中学校側にも大きな問題があると思う。
しかし、その中で唯一私が尊敬していた数学の先生(私が先生を目指すきっかけになった先生)だけは、経済的な理由で塾に行けない生徒や全ての生徒のことを思って、効率・合理主義な塾にはできない本来学校であるべき、考えることの楽しさや教科の面白さを教えてくれた。(それまで私は数学が大嫌いだったのにも関わらず、その先生の数学の授業だけは楽しかった。)まさにこれが生産と教育を混同していない、あるべき教師・学校の姿だと考える。
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