2017/07/03

当たり前のことですが、こちらがある程度英語ができると認められると相手は手加減などしてくれません



以下は、教英の大学院(修士課程)を修了し、現在、英国のある大学院の修士課程で勉強しているK君からのメールです。

K君は、資格試験の点数でいうならそれなりに高い「英語力」をもっていますが、それでも英国に留学し、英語母語話者の若者と議論をすると、なかなか苦労します。

現在の日本では、ますます資格試験で「英語ができる/できない」が定められようとしていますが、英語教育関係者は、それとは異なる物差しをもっていなければならないのかとも思わされます。

そんな問題提起も含めて、以下の文章を読んでいただけたら面白いかもしれません。(写真はK君が先日訪れたCotswolts の風景だそうです)。





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昨年の9月の学期のスタートからほぼ10か月経ち、こちらの生活にも慣れてきました。しかし正直なところ、本当の意味でこちらの生活に慣れてきたのはほんの最近です。

といいますのも、一度でも海外に行かれた方はお分かりになるでしょうが、外国人が言語もままならないまま現地で生活していくというのは非常に大変なことです。私は10年以上勉強して留学しましたので(形式的な英語の試験が関わる限りでは)十分英語が流暢な部類に属すると思いますが、それでも最初は非常に不安でした。

簡単な買い物ならあまり言葉などできなくても How much?と Thank you さえできれば苦労しませんがこちらは海外で学問を学びにきているわけで、例えば授業でネイティブとディスカッションをするとなると相手の速さについていけずしどろもどろもいいところでした。

当たり前のことですが、こちらがある程度英語ができると認められると(そしてそう認められることは喜ばしいことですが)相手は手加減などしてくれません。ネイティブ2人の会話に1人で参加するともなれば、見たことも聞いたこともない idioms / jargon の応酬で会話に参加している気さえしなくなるほどです。そういう日々の中で自分が deficient だと思い始めたとき、’ a competent (deficient) speaker’ とは何ぞやと思うようになりました。私がネイティブに Am I a deficient speaker of English? と問えば I don’t think so と返ってくるはずです(そう思いたい)。今ではくだけた会話にもほとんど苦労することはありませんが、この問題は自分の経験の枠のみならず、英語教育の文脈においても考えるべき問題であるように感じました。

学校教育では英語の点数は一律的に点数化され「できる子」と「できない子」が必然的に生まれるものですが、なにを規準として評価するのかというのは単なる成績評価のみならず生徒の英語学習の指針や生徒のアイデンティティを考慮する上でも重要な問題です。では、その様相をいかにして捉え、生徒に教え、評価するかというのは英語教師としての必要条件であるように感じました。

全世界の教育における点数化の波の中で客観的・一律的な点数評価に抗うのは日に日に難しくなる一方ですが、それでも主体としての生徒とどう関わるかというのは未だに教師の手にあるはずです。であれば、どう実践に組み込むかという問題は別として、少なくとも言語使用、言語習得の実態を生徒に明確に説明できるだけの知識(もしくは常識)を持つことは教師としての責務かと思いました(とほざいてみる)。














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