2017/04/21

教英卒業生の実践が大修館書店『英語教育』の5月号で取り上げられました!


教英卒業生で、新採3年目の島村詩穂先生(高知県立室戸高等学校)の実践が、大修館書店『英語教育』の2017年5月号の「阿野先生・太田先生のにっぽん全国 教室おじゃまします!」で取り上げられました (46-47ページ)。





記事では阿野先生と島村先生の対談も掲載されています。

島村先生の研修会に積極的に参加し、講師の先生の先生に悩みを聞いてもらっては、そこで得た助言を元に考えて試行錯誤を繰り返しているそうです。

現在は、生徒一人ひとりの気づきを大切にするようにしたことが、特に英語力の向上につながったそうです。


卒業生が元気でやっているのは嬉しいです。

島村さん、そして全国の教英卒業生の皆さん、充実した毎日を送ってくださいね。

もし何か嬉しいニュースがあれば、遠慮なく教英スタッフにお知らせ下さい。

皆さんの活躍をこの広大教英ブログで伝えることで、元気が読者の皆さんに伝わればと願っています。


2017/04/19

今年の昼読はさらに多言語空間になりそうです。



今週から始まった「昼読」ですが、二回目の本日は特にさまざまな言語での読書会となりました。

参加者は院生5名、留学生1名、教員2名の合計8名。

読んだ本の言語は英語とロシア語がそれぞれ2名。あとはフランス語、ドイツ語、中国語、日本語となりました。






読書、とりわけ外国語の読書を継続することはそれほど容易ではありません。次から次に来る細々した仕事に追われて後回しにされがちだからです。

「昼読」で(外国語でのものも含めた)読書の習慣が形成されればと思います。

加えて、最後の10分間での意見交換は本当に面白いです。

世界が広がり深まります。

「昼読」は緩やかな集まりですから、ご興味をお持ちの方はお気軽に月・水・金の昼休みに教育学研究科A210室にお立ち寄りください(誰もいなくてもどうぞ勝手に入って下さい)。








留学生も含む学部生による「対話」についての振り返り



ここ最近、管理人はさまざまな機会を通じて「対話」の実践を促進しています。

以下は、学生間の対話を導入した学部4年生の授業(「現代社会の英語使用」)の第一回目の授業での感想の一部です。一人は留学生(ただし教英所属ではありません)ですので、日本語の慣用法からは少し逸脱した書き方もしていますが、意味理解にはまったく支障がありませんでしたので、敢えて修正などはしませんでした。「慣用から少し逸脱しているとしても、これだけ深い内容を伝えられるのなら、この日本語は一つの個性として認められるべきではないか」と考えたからです。

このように母国語話者による修正を最小限に抑える方針(=意味理解に支障がでる場合や意図していない誤解を生んでしまっている場合以外は基本的に修正しない方針)については、アメリカの大学の多くのライティングセンターでは採択されていると聞いたことがありますが、自分自身でその方針についてそれほど共感していたわけではありません。ですが、今回は実際の留学生の日本語を読んで上のように感じた次第です。

もちろん修正についてはいろいろな意見があるでしょうし、文章執筆の目的によっても方針が異なるだろうことは承知していますが、今回は敢えて修正なしの方針を取りました。

ともあれ、以下の「対話」についての学部4年生の意見をお読みいただけたら幸いです。





*****


■ 個々それぞれが物事の一面しか見えていなくても、真理と連動性を全員が目指して対話をしていくと、個々の誰の考えであったものでもない、あらたな考えを創造できる。相手の言っていることが一見話題とは関係ないように思われるかもしれないけれど、連動性が頭にあれば、「それはどのように関係するの?」と質問をして議論を深めていくことができる。「相手を変えてやろう」と思っていると相手の意見を聞くことができない。

 けんかにならないように、などと思って反論しないでいると、対話にならない。傷つけない言い方ができれば、相手を思いやりつつ相手とは異なる意見を言い合えて、対話が進んでいく。

  対話ができた経験があるか、という問いに対し、私は授業や実習で授業を作るための話し合いがそれに該当するだろうと始め思った。しかし、講義中の対話で指摘してもらった通り、授業を作る話し合いは決められた時までに終わって授業を作りきらないといけないという点では、私たちが講義中に捉えた対話の在り方とは少し異なる。具体的に授業を作る話し合いの際は、時間的な制限によって妥協せざるをえない時もあるだろう。他に、わたしはサークルの運営についてサークルのメンバーと話し合うときも対話であったのではないかと思っていたが、その中にも、何月何日までに決めないといけない、など時間的な制限がついていたものがあり、それらも少し違うのだと思った。

そこで後々、対話をした経験は本当になかったのだろか、とさらに考えてみた。ずっと部活やサークルの話になるが、大学の吹奏楽団のみならず、中高の部活についても、母や運営上の関係が強い相手と部活の課題やその解決について話すことがあった。大体、そのときは明確な答えが出るわけではなくてむしろ「難しいね」などとひとまずは話を終えるのだった。そしてまたしばらくして同じ話をする。少しずつしか進展はしなかった。なかなか解決できない、という思いはあるが、いつか答えが見つかるのではないかという前向きな思いは常にあって、辛いとか悲しいといった否定的な思いにはさほどならなかった。対話ができた関係というのは、相手を信頼して安心して発言ができるし、相手も自分の意見を聞いてくれると思って発言できる関係であるから、そのような関係を持てたことはありがたいと思った。

 上司など上下関係がはっきりある相手には、反対の意見を言い出すのも難しく思われる。そういう関係でも対話を意義あるものとして成り立たせるには、上司の側に工夫が必要だろうと思う。あるいは、講義中の意見でも出たように、お互いを知らない時も、反対意見を出すことに抵抗を覚えることがあるだろう。このような時に、対話をうながす態度や話し方ができるようでありたいと思った。それらがどのようであるかということを考える際に一つ思い当たったのは、講義中の対話を見てもらって「間と話しだしの捉え方が人によりけり」と言われたことだった。間の感じ方、これだけ空いたら話せる、という感じ方は違うことを、特に他の国の方と話す時に感じたことがあったが、それは実際には国籍に関係なく生じる個人差である。発言権をバランス良く回す必要があるし、それだけでなく、質問をしたりして議論に巻き込んでいかなければより良い対話にはたどりつけないと思った。


■ 人の呼吸を感じる、という言葉が印象的だった。思い返してみると、高校の部活の試合では「よく相手の動きを見ろ」と言われた。しかし「相手が動いていないのに自分から動いていた」と試合後には同じ助言を何度ももらった。大学のサークルでは「周りの音をよく聞いて」、「口の形を見て」、と言われていたが、いつもずれてしまった。今回の授業で、人の呼吸を感じるということ、表情からその人の感情や動きを読み取る、ということはとても大切なことだと改めて思った。

アイコンタクトを取っているつもりで、何も見ていないのと一緒の時がある。人が目の前にいるのに、ただ浮かんだ言葉をそのまま口から吐き出すだけの時がある。それは討論どころかコミュニケーションですらない。話していて心地よいと感じる人の特徴は表情や言葉の表現など多くあるのだが、そのうちの一つに、自分が「しゃべりたい」と思ったときにそれを察して、すっと話してから聞き手へと自然にうつるということも挙げられるのではないかと思う。

先日教英の友達と、コミュニケーション能力が高いというのは、ただ笑って話ができるというだけではないのではないか、内容も含めて言えるものではないのか、という話をした。コミュニケーション能力の定義は様々であるが、相手意識は不可欠であるのではないか。こう言ったら、相手はどう思うか、どう返すか、話の流れはどう変わるか、そこまで少しでも見通しをもって話ができれば、相手を大切にしたやり取りが可能になるのではないかと感じた。


■ 
 対話によって、話し手と聞き手の間、意味の完全な一致は前提とされず、意味は差異があることを認めており、むしろ差異があるからこそ、新しいものを作り出すことが出来るという解釈によって、対話の本当の目指すことを考え直した。対話の中に、聞き手は普通に話し手が思っていたこととまったく同じ意味での反応をしないのは、人はそれぞれの背景と価値観を持っており、その価値観によって、自分しか持っていないスクリーンを通じで対話をしているからであろう。そして、対話の中で、自分が言おうとしたことと相手が理解したことの間の差異、本当は対話者それぞれ思考方式の差異だと考えた。その差異から生み出した同じ言葉に対して違うの理解、つまり同じ言葉について考え方の他の可能性そのものは、対話の参加者たちが創造した「共通な新たな内容」ではいかと思った。 

 理想的な対話を作るため、原則的には、対話の議題は定めないことだが、実際に対話をする時に、たとえテーマを決まっていなくても、その対話の最初の発話者によってある話題が提出したら、後の発話者もその人が言ったことあるいは議題に関わる内容しか言えないようになるのは普通だと思う。また、完全に自分の偏見を見捨てて他人に傾聴することも、あるいは自分の思うことをすべて自由に述べることも対話にとっては大切だが、そういった対話をするのがやはり実際の生活でいろいろな場面でも難しいことだなと意識思った。

 対話の参加者の間での意味に差異から何かあたらしいものが生まれてくるのように、私達が言葉にしたことと自分の本当の思考やぼんやりとしか意識できない思考過程の間にきっと何らかの差異があるのだろう。その差異によって、自分の思いに対して新しい認識を得られるかもしれない。それが、私達が言語から自分について学べることなのではないかと考えた。


■ 後半の「対話」というものについて実際に対話をして見るときには,これほど日本語で対話をすることが難しいのかと驚きました。私たちのグループの対話の進め方は,提示されている質問に対して一人一人が意見を述べていくという形でしたが,後から振り返って見れば,これは対話とは到底言えないものであったのではないかと考えてしまいます。対話とは,異なる意見・異なる背景を持った人と話し合う中でなんとなくこれが真実なんだろうね,というものへと近づこうとする試みであると考えますが,私たちが行っていた話し合いではただひたすらに自分の意見を述べるだけで,人の意見を受けて自分の考えを変えたり反論して見たりすることが一切なかったように思います。母国語で対話をすることは造作ないだろうという考えは,私たちが日本語そのものに関する知識は十分なのでしょうが,対話をする経験や意義などを持っていないことに気づいていなかったからこそ持ってしまうのでしょう。


■ 対話についてですが、自分がこれまで思っていたものよりはるかに創造的で高度な営みであるということがわかりました。今回の対話体験を通して一番心に残ったのは聞き手の「受容力」です。特に、聞き手は話し手とまったく同じ意味での反応をするわけではない、という点が印象的でした。自分がとにかく伝えているだけでは相手に伝わらない、したがって相手の理解を踏まえて(受け入れて)少しずつお互いが良いと思う方向にすり合わせていかなければならないことになります。ここで自分を押し付けたりせずに、傾聴する姿勢を持たなければ対話は成立し得ません。





2017/04/18

オーストラリアに留学中のIYさんからの便り


現在、広大のHUSAプログラムを使ってオーストラリアに留学中のIYさんからの便りを転載します。

彼女も書いていますように、長期留学をすると卒業が遅れはするものの、それだけ一層充実した大学生活を楽しめるようです(もちろん勉強は楽しいばかりでは済みませんが)。

管理人はオーストラリアに一度しか行ったことがありませんが、IYさんからの下の写真でオーストラリアの空の色を思い出しました。いいなぁ(笑)。





*****



こんにちは。ご無沙汰しております。

私もオーストラリアはゴールドコーストで元気に生活しています。今日までイースターブレイクで授業もなく、先日はFさんとシドニー、メルボルン、ゴールドコーストを旅行してきました。やっと一段落付いたので、近況報告をと思い、メールを書いています。

私は今、これまで学んだことのない分野の授業を履修しています。きっと留学を決めた人の多くはこの大学でこれを学びたいというものがあったのではないかと思いますが、私は留学に来てからそれが全くなかったことに気付きました(笑)。ただただ、留学をして英語に触れたいと思っていたみたいです。パッと目について面白そうだと思った授業を履修したのですが、しばしば苦労しながらも楽しく授業を受けることができています。



1つめの授業は、Language, Technology and Social Mediaという授業です。シラバスを読んでこれは教英のコンピュータの授業に似ていそうだと思い履修したのですが、フタを開けるとびっくり、バーチャルクラスでした。パソコンの画面越しにレクチャーを受け、受講者は先生の質問などにチャット形式で答えていくという授業スタイルです。このチャット形式というのが結構な曲者で、一生懸命打っている途中で話が別の話題に移っていたり、他の人のコメントを読んでいる間に先生の話している言葉を聞き逃したりなど、初日は特に苦戦しました。

しかし、授業内容はとても興味深いです。このブレイク前に中間試験として、言語学習を手助けするアプリやサイトを文献からの根拠とともに紹介するプレゼンテーションを録画し、YouTubeにアップして互いにコメントをし合いました。私はTED Edについてのプレゼンを作ったのですが(先生ありがとうございます!ネタがありました!!)、英語話者にとって英語学習に役立つサイトというのはとても興味深かったようで、よいフィードバックをもらうことができてお世辞でも嬉しかったです。




2つ目の授業は、Writing Poetryという授業です。レクチャーで詩をつくるときのテクニックを学び、チュートリアルで週に1人ずつ自分で作った詩を発表して他の受講者からアドバイスをもらうというものです。正直なところ、詩に出てくる単語の意味を取ったり調べたりがやっとで味わうというところまでいけていませんが、それでも毎回新しい表現や技術を学ぶことができ、自分の詩に活かすことができるととても楽しいです。

先週は私の発表の番だったのですが、シンプルなワードチョイスが良いと言われ、私のスカスカの語彙力も捨てたもんじゃないなと思いました(笑)でもやっぱりネイティブの子の書く詩は技巧が凝らしてあり知っている単語が私は思いつけない方法で使われていて、羨ましいし近づきたいです。




3つ目の授業は、Understanding the Social Worldという社会学の授業です。今まで社会学のしの字も触れたことがなかったのですが、‘Make the familiar strange’という標語に釣られ受講することにしました。授業内容もまさにそのままで、Race, Age, Culture, Class, Genderなどの身の回りにあることについて社会学の3つの考え方を使って考え直し、ディスカッションをするというものです。

ディスカッションは聞き取るのが精一杯ですが、柔軟な考えやステレオタイプの違いに毎度驚かされます。授業後には1つのテーマに沿って500単語程度のリフレクションを書くのですが、なんとか母語ではない言語でインプットしたものを母語ではない言語でアウトプットすることの難しさを痛感しています。リフレクションの良し悪しは別として提出した瞬間の達成感を求めてなんとか頑張れています。3つの授業の中で一番興味があり、楽しく受けられている授業かもしれません。




すごく長くなってしまいましたが、不平不満をときに漏らしながらも本当に心から留学を決意して良かったと思います。卒業を1年遅らせることに不安を抱いて悩んでいた時期もありましたが、今はそれだけの価値はあると昔の自分に胸を張って言えます。授業はもちろんですが、普段の生活から学ぶこと、感じることが大渋滞しています(笑)。

私は今オーストラリア人3人とアイスランド人1人とハウスシェアをしているのですが、英語はもちろん文化や常識の違いを知ることができます。カルチャーショックを受けるときもありますし、見習わないとと思うこともあるので共同生活も面白いです。留学に来てから約2ヶ月、あっという間だった!というわけでもなく、良く言えば毎日が充実している、悪く言えば緊張感が続いた濃い2ヶ月でした。あと約半年経てば嫌でも日本に帰らなければいけないので、今のうちに学べるだけ学んで、楽しむだけ楽しんでおきたいです。

ふと書き始めてこんなに長くなるとは自分でも驚きました(笑)新学期も始まってお忙しい中、読んでいただきありがとうございます。先生もお体には気をつけて、お仕事がんばってください。
それでは、失礼します。

IY








2017/04/17

教英新入生の意気込み



以下は、学部新入生対象の「教養ゼミ」で私が話した際の学生さんの感想の一部です。私は以下のような趣旨で、90分間「学生時代の落とし穴」という題でお話をしました。


教英入学式での挨拶


下の文章を見てもわかるように教英生といってもいろんな個性があります。そんな新入生がこれからの4年間で、ますます自分自身を見出し、しっかりと自分自身のことばを身につけてほしいと切に願っています。






*****


■ 今日の授業を受けて一番強く感じたのが、夢へ向かって歩む道のりで感じる不安な気持ちに、特効薬はない、ということです。

これをすれば大丈夫、これさえ出来れば過程段階で手を抜いても良い、などという保証はどこにも無く、今までもきっとそうだったのだと思いますが、大学生活では特に一人一人に、自己の行動に対する責任がのしかかってくるのだと感じました。少しマイナスにも聞こえる表現を使いましたが、裏を返せば、目標までの過程で何をしても良い、自分の好きなことをとことん突き詰める自由が与えられているということでもあります。

今日の授業で先生もおっしゃっていましたが、高校まではどことなく、先生が描く理想の答えのようなものがありそれを察しその通りに行動するよう求められていました。この雰囲気の中で、全体に共通する社会規範が自分に叩き込まれ、基礎として私の中に残り、コミュニティにおけるあるべき姿としての人格が、1つのパターンとして形成されたと思うので、この風潮が悪いものであるとは思いません。しかし、その流れの中で、自分の好きなこと、したいことを見失ってしまったのも事実です。私は、英語教員、という一つのゴールを見据えて、受験生の時間を過ごし、広島大学に入学しました。英語が好きで、教師という職業にずっと憧れを抱き続けていました。いざ教師という夢の第一歩である教育学部に進学し、学びたいことを自分で選択できるようになると、ゴールに至るまでの過程段階で何を積み重ねたいのかが思い浮かばない自分がいました。その時に初めて、大学生活の難しさのようなものを突き付けられた気がしました。

自由が与えられている、これはその自由を行使する権利があるのと同時に、自分で選択する、いやそれよりも前に、選択肢を自らに提示する義務があるということです。もし、自分なんて~~だからこんなこと出来ない、と思うのであれば、~~の部分を自らで変えなければならないし、周りが〇〇だから、という場合は〇〇であったとしても可能な選択肢を増やさなくてはならない。どんな要因も言い訳にはならないことを強く実感しています。

 冒頭で触れた不安な気持ち、を軽くするにはどうすればよいのか、この答えはまだ導き出せていません。しかし少なくとも不安な気持ちを持つ自分から逃げて楽に走ろうとは思っていません。不安を抱える今の自分と向き合うための意志を確立するきっかけとなった授業だったと思います。

 広島大学で、教英で過ごすこれからの時間の中で、多くのこと・もの・ひとと主体的に関わり、「生きる力」を身につけ、将来の生徒に伝えていけるよう、精進します。




■ 授業の感想というよりは、自分の中で先生のお話を反芻して考えたことを記す形になると思います。

 まず、大学では、とにかく自分で考えて、すすんで動くことが大切なのだと改めて感じました。これまで私は、先生がおっしゃることにそのまま従うだけで、自分なりの意見を持とうとしてきませんでした。ですから、大学に入って、自分で時間割をつくるというのでさえ非常に戸惑いました。履修登録の時には、何もかも決めてくれる人がいたらどんなに楽だろう、と何度も思ってしまいました。しかし、全ての行動や判断を他人に委ねてしまっている限り、私は「お子ちゃま」なままだ!と気づくことができました。

今まで自分で考えることを放棄してきた代償として、私は自分が本当にしたいことが何なのかを見失っています。自分に素直になれ、と言われても、素直な自分とは何なのか?と思ってしまいます。ですから、大学ではすすんで人と関わり、その方々と話をする中で、素直な自分の感情を取り戻したいと考えています。そして、誰かにただついて行くのではなく、自分なりの意見を持てるようになりたいです。

このことと関連するのですが、これまでの私は、先生のお話にもあった「優等生」キャラだったように思います。まわりの人に優等生と言われることで、自分の価値を見いだしてきました。しかし、大学生になって、優等生という肩書きにすがる生き方が、いかに空しいものだったのかを痛感しています。例えば、新歓で同級生や先輩方と楽しくお話したかったのに、思うようにコミュニケーションがとれなかった時。自分の殻に閉じこもって、人付き合いが下手な私・・・と悔しい思いをしました。成績より大切なものは、いくらでもあると目が覚めた出来事の一つです。新しい環境では、これまで私は優等生をしていた、などのことは全く意味を持たないから、自分で自分の強みを探さないと!と思いました。

また、私は周囲の大人からの「優等生」という評価に依存し、何度も苦しい目に遭ったので、私が大人(先生)になった時には、周囲の人(生徒)を型にはめるのではなく、その人をしっかり見つめようと思いました。

次に、教職についてのお話を聴いて、自分の将来を真剣に考えねばと思いました。なぜなら、私は少々ゆがんだ理由で教師になろうとしていたからです。最近、純粋に教師を志している教英の人と話をしては、自分の不純さや周囲との温度差を感じて苦しい思いをしています。私は教師を目指してもよいのか、としょっちゅう悩んでいます。そんな時に先生のお話を聴いたので、正直耳を塞ぎたくなりました。しかし、いつか決断しなければならない時は来るので、そのための判断材料としてのお話が聴けてよかったです。教師を目指すかどうか、すぐには決められません。今のところ私にとっての最大の課題であり、まだまだ悩む予定です。

また、先生は時間の大切さについてもお話されたと思いますが、私も今、時間の大切さを実感しています。一人暮らしを始めて、家事に時間をいっぱいとられるようになり、自分が好きに過ごせる時間が激減しました。SNSのアプリばかり開いてボーッとしている時間がもったいないと思うようになりました。先生がお話されたことと趣旨はズレているかもしれませんが、自分なりに時間の大切さを理解しました。それと同時に、限りある時間を自分磨きなどの、自分で納得できるものに使いたいと思いました。ですので、たとえどれほどお金を積まれても、私は自分の時間を売ることはないと思います。

最後に、私は大学で本当に自分のやりたいことを見つけ、人と比べるばかりの生き方から脱却したいです。そして、授業料以上のものを授業で身につけ、将来は、今までたくさんの方々が自分に注いでくれた愛情を、今度は私が関わる人々に還元したいと考えています。そのために、これからしっかり学び、さまざまなことを経験したいです。



■ 正直、先生のお話を聞いて不安感を覚えました。なぜなら僕は中、高校生のときから人よりも英語が得意であることに自信を覚え傲っていたからです。そして英語ができればそれでいいと考え、満足していたからです。英語が十分に話せても、文法を熟知していても、それでは教師として立派であるとはいえないのだと気づきました。同時に、僕は深みのある人間になりたいと強く思いました。含蓄のある話がしたいと考えました。

そのためにはまず大学で多くを学び経験しようと思います。最低限の単位を取って卒業するのではなく、さまざまな分野の授業を慎重に組み合わせて受け、幅広く確かな知識を身に付けようと思います。ここで気を付けるべきは、ただ授業を受けに行くのではなく主体的に取り組むということです。たとえばペアワークにおいては自らの考えをハッキリと述べようと思います。もしつまらない授業が有ったのなら、なぜその授業がつまらないのか自分なりに分析するなど、時間を最大限有効利用しようと思います。

先生のお話は春休みで弛みきった姿勢を正し、緊張感を取り戻す良いきっかけとなりました。今後の大学生活をより実りあるものにするために自分にできること、必要なことを考えながら日々を過ごしていきます。



■ 今日は教養ゼミでお話をしてくださり、ありがとうございました。自分がやるべきこと、気をつけなければならないこと、そして何より自分の現状を考えるとてもいい機会になりました。

先生の話を聞いてまず、自分は両親からの多大な期待をうけて大学に行かせてもらっているんだと再確認し、その期待に最大限応えるべく、また自分の夢を叶えるためによく遊びよく学ぼうと強く思いました。図書館などの学内施設を十分に活用し、授業以外の場での勉強を充実させたいと思います。

次に”私からすれば気になる学生さんの言葉”の08で話された、「薄っぺらい英語をぺらぺら話すより本を読みなさい。」という話が自分には強く響きました。自分は9ヶ月の留学を経験しました。しかし9ヶ月で学んだことは主に話し言葉で、学術的な話を自分の言葉でするというのは未だに難しいです。なので先生がその話をされた時に自分の中のどこかにあった「自分は留学したのだから...」という甘えや傲りに気づき、英語教師になるにはもう一段階上のレベルの英語を扱えるようにならないといけないと思いました。そのために邦書、洋書を問わずに本を読み、様々な知識を蓄える必要があると感じました。

自分はまだ英語教育自体に対しての知識は乏しいですが、これから授業や本から知識をどんどん吸収して、もっと先生の専門のお話をくわしく聞けたらと思っています。また、在学中に行き詰ることがあれば相談にのっていただけたらと思っています。これからよろしくお願いします。




■ 私は合格発表が出たとき、自分はまぐれで大学に受かったのだと、本気で思っていました。

けれども、先日初めて教養ゼミという授業を受けて、私は広島大学入学した以上、この場で自分のゆき先を見つけ、この場で将来社会に出て、どうにか頑張っていくための生きる力をつけなければならないのだと思いました。

一番大事なのは、成績や地位ではなくて、社会でうまくやっていく力をつけることだ、私の父も私によく言います。

この授業で知った通り、大学の授業はたった一コマに大きな金額がかかっています。

勉強についていけるか少々不安な部分もありますが、私の大学の学費を支払ってくれている両親に感謝して、できる限り多くのものを一コマの中で得ることができるよう頑張りたいとおもいます。そして時間を大切にすること。

まだ始まったばかりの大学生活です。この4年間でもちろん教職の免許をとるという一つの目標があるのは当然ですが、免許を得ることだけ、ただそれだけばかりに目をむけるのでは無く、多くの人、本に触れて、英語だけじゃなくて、ほかにも’何か’を知っている先生となれるよう頑張りたいです。

教養、という言葉を聞くと、堅苦しいイメージがわきますが、この授業はとても楽しかったです。今後4年間、忘れてはならないことを知ることができたと思っています、そして4年間忘れないように頑張ります。




新入生歓迎の対面式と立食パーティを企画してくれたK君(学部3年生)の感想

以下は、新入生歓迎の対面式と立食パーティを企画してくれたK君(学部3年生)の感想です。教英はこのような学生さんのやる気に支えられています。教員としては教育と研究で教英を盛り上げたいと思っています。



*****

対面式と新歓の企画を通して、1番強く感じたことは「人に恵まれていた」ということです。

一緒に新歓の企画を行ったもう2人の幹部、企画を手伝ってくれた2人のヘルパー、対面式で素晴らしいパフォーマンスをしてくれた28生、対面式や新歓を盛り上げたり、手伝ったりしてくれた27生、対面式や新歓に時間を割いてお越しくださった上級生の皆さんや先生方、そして、まだまだ新生活に慣れない中で参加してくれた新入生の皆さん、、、有り難いの一言です。

しんどい瞬間もありましたが、当日、新入生と上級生が楽しそうに会話しているのを見たり、沢山の人にありがとうと言ってもらえて、幹部をやって良かったなと感じています。そして、企画を通して、自身の人間としての成長も少しだけ感じられました。

最後になりますが、本当にありがとうございました!


2017/04/12

2017年度前期も「昼読」を開催します


食事と運動があなたの身体を作るように、読書と対話があなたの心を作ります。

インスタント食品ばかり食べて、身体を動かさない毎日があなたの身体を鈍らせてしまうのと同じように、教科書や研究論文以外はSNSでしか文章を読まず、当たり障りのない浅い会話(あるいは仕事上の話)しかしない毎日はあなたの心を貧困で鈍重なものにしてしまうでしょう。

貧困で鈍重な心は、あなたの人生の可能性を潰してしまうだけでなく、その抑圧的で独断的な性質で他人の人生の可能性も押しつぶしてしまうかもしれません。


せめて大学では自発的な読書の習慣を大切にしませんか?






「昼読」は、自発的に集まり、各自がそれぞれ静かに好きな本を読んだ後、その読後感を共有する集まりです。感想の共有という活動は、あなたの世界を広げ、深めてくれます。

授業期間中の4/17-7.28の月・水・金の昼休みに教育学A棟のA210室に集って下さい(昨年とは部屋が異なりますのでご注意ください)。

遅刻・早退・欠席自由です。昼食を食べながらの参加も結構です。広島大学の構成員でしたら学生・教職員を問わず、どなたでも歓迎します。

緩やかに集まり、短くとも深い時間を共有しましょう。


代表管理人:柳瀬陽介(英語教育学講座)
メールは広大アカウントの前に"yosuke"をつけてください。



関連ブログ記事:
2016年度後期の「昼読」を終えて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/02/2016.html
昼読再開 + ハリー・ポッター仏語版を読んだ学部4年生の感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/4.html
前期の昼読を終えて(学部4年生M君の感想)
 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/4m.html
2016年度も月・水・金に「昼読」を行います
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/03/2016.html
月・水・金の昼休みに「昼読」を始めます。英語・日本語文学・第二外国語での読書会です。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/09/blog-post_29.html



3年生 模擬授業練習会

 学部3年生が自主的な模擬授業練習会を開催しています。 立ち上げに携わったメンバー(3年生堀さん)から、会の紹介をしてもらいました。 ――――― 3年生は、これまで模擬授業をする機会が十分になかったと感じており、模擬授業をする機会を確保するための自主勉強会を立ち上げることにしまし...